「私の愛する中央区」−兜町から浜町へ−
戦後私の父が中国から復員してきて、以前に勤めていた日産自動車に復帰できず、鞄ひとつで税理士業をはじめた。香川県の同県人の関係で、兜町の乃村工芸社の一隅を二坪ほど借りての開業だった。司法書士もしていたので、当時登記所が目の前にあって地の利があったようだ。
私は日本製粉と言う会社に入って秘書課長等を経たあと40歳で脱サラして税理士になったが十分な引継ぎもしないうちに父はなくなった。早いものでそれから約35年間兜町でお世話になった。50歳のときにビルを建て職住一致でそこに住み働いた。
戦後の長い間、兜町は日本の金融の中心だった。メイン通りには証券会社、銀行が並んでいたが、私の住んでいたところは消防署、警察署、公園、それに谷崎潤一郎がでた日本最古の小学校がごく近くにあった。バブルもはじけて兜町もすっかり変わった。しかし昨年は町会の役員の一員として兜町町会で約20年ぶりにみこしを担いだのに一肌脱いだ。
兜町に30年以上もいて一番よいと思ったのは交通が便利だということだった。職住一致だから朝晩の通勤は勿論ないが、ちょっと時間があれば私の好きな展覧会を見にもいけるし、休日の土曜一日だけで映画を有楽町近辺で三本もはしごで観ることも容易だった。
何の不満もなかったが、突然立ち退くことになった。
交通の便利さ、職住一致、それにできれば長年お世話になった税理士会日本橋支部から変わらないということで新しい事務所兼居住を探した。しかし何しろ職住一致で、生まれた時からの70年以上の荷物がある。とても収まりそうにない。随分たくさん探して回った。人との出会いも面白いものがあるが、偶然にピタッとしたものが浜町に見つかった。
そして引っ越してまだ荷物は整理がつかないでいる。
しかし引っ越してみたら日ごとにここ浜町が気に入っている。まず目の前に地下鉄都営新宿線の浜町駅があって兜町の便利さと殆ど変わらない。甘酒横丁がすぐそばなので食べ物や買い物はとても楽しい。浜町公園もすぐそばで、温水プールやゴルフの練習場もある中央区立の総合スポーツセンターも歩いて2,3分だ。
一番気に入ったことは自然が豊かなことだ。兜町では自動車の排気ガスと毎夜のように聞かされる救急車の騒音、その兜町から来たらここはまさに別荘地だ。朝4時ごろには百羽以上の鳥が我が家の上を小一時間飛び回る。5時ごろになると近くの浜町公園に犬を連れてくる人が何人かいるらしく犬がほえる。昼間は涼しい川風が吹き抜ける。空気がすんでいるからだろう、遠くの話し声も聞こえる。
夕方になると蝉が鳴く。子供の遊んでいる声が聞こえる。{もういいかい}{まあだだよ}{もういいかい}{まあだだよ}{もういいかい}{もういいよ}子供たちがかくれんぼうをしているのだ。自分の頬をつねってみた。その後しばらく10歳ぐらいの少年の自分に戻っていた。
私の家からは隅田川の船が行き交うのがよく見える。一日中、大小の船が上ったり下ったりしている。夜9時半ごろになると東京湾の観光から続々と船が戻ってくる。堤灯をたくさんつけたいろいろな形の船が毎晩見ていてもあきない。
昨日7月30日は隅田川の花火大会だった。2万発の花火に100万人の見物客が酔いしれた。着物姿の若い女性が随分たくさん見られた。家族で歩いて花火大会を充分に鑑賞できたが、多くの人達が遠くから来ていると思うと少し申し訳ない気もした。花火鑑賞の屋形船がまるで蒙古の大群が攻めて来たみたいに隅田川を上り、花火が終わると一斉に引いていく様は圧巻だった。
昔はクーラーもなかったので、夏の夜は涼を求めて、ゆかた姿でうちわを持って隅田川に人が集まったに違いない。私の新居の昔はどうだったのか。私の新居は今の明治座の裏にある、浜町2丁目。さっそく調べてみた。幸い私の大学の恩師白石先生が昔の江戸の研究第一人者なので、調べるのは容易だった。
江戸時代この浜町は大名屋敷地だった。浜町というところは大川端にも面していて、景色もいいし、空気もよかったからか医者や儒者の屋敷も多かった。今私が住んでいるところは54万石の細川越中守のお屋敷16000坪があった。とても広く立派なお庭があり大正末の震災後まで存在した。明治初期になると浜町2,3丁目の土地所有者に、井上馨、島津忠義等も入ったが状況は殆ど変わらなかった。
その後明治座の影響で芝居茶屋や待合ができ、いわゆる大正ロマンの時代、大正7年には浜町2丁目に芝居茶屋が32軒、待合が81軒もあった。お妾さんの家も多かったようだ。ほとんど全部の家が黒塀で、夜はずっと人力車が並び芸者衆が出入りした。ツンテンシャンとシャミの音が聞こえてくる。わが国固有の芸がその中で磨かれ発表され、旦那衆は酒と女と歌を楽しんで明日の活力とした。(茶屋や待合が当時の多額納税者だったことは税理士として一筆せねばなるまい。)
このように浜町には他の日本橋商業地区とは違って新しい産業のいぶきは殆ど感じられなかった。中央区にありながら金融の中心である兜町、商業地の人形町、久松町とは全く異なり、古い日本の残した芸と生粋の本当の静かな街であった。特に浜町2丁目は中央区の小京都として独特の「浜町風趣」をもつ町であった。戦後になって売春防止法ができて日本文化の生粋が消えた。花柳界がなくなり、和楽、三味線とか日本舞踊が重要視されなくなった。別に売春をしていたわけではない。芸を楽しむのが主だったのに。
調べたところ今私のいるところは当時待合のあったところだ。浜風に吹かれてうとうとしながらずうっと昔のことを思う。江戸時代の大名に自分がなっている。大川端の待合にいるようだ。若くてきれいな女性たちに囲まれている。得意な詩吟を吟じている。そばに先ほどまで遊んだ立派な螺細の碁盤が置いてある。隣にいるのは碁がたき鈴木先生か。
夢から覚めて思う。これからの人生、私は中央区の歴史そして日本の歴史を、さらに先達の思想を真剣に学びたいと。
(2005年8月1日記) |